第一章 『インドから日本へ』
143名の取材を通して
第一話 東京
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ある朝、目を覚ました時、自分がどの街のどの部屋で眠っていたのか、すぐにはわかりませんでした。
暗い部屋の天井にはシーリングファンが回っています。でも、これだけではまだわかりません。
昨夜寝付いた時の意識まで記憶を遡っていきます。
その日、僕は東京の自分の部屋で目を覚ましたのでした。そのことに気がつくまでわずか数秒のことだったかもしれませんが、その間、自分が世界と切り離されているような混乱を覚え、不安な気持ちになりました。
こう言うと、なにか特別な体験をしたように聞こえるかもしれませんが、これは初めてでは無いのです。しかも、一度や二度ではなく、何度も、色々な場所で。
ついこの間も鹿児島のビジネスホテルで同じ感覚に陥りました。その日はボクシングジムを運営する人物を取材する約束がありました。その週、すでに2人の取材を終えた僕は、自身に課した工程の最終段階にいました。緊張が少し解れたこともあって、寝付く頃には気持ちに少しばかり余裕が生まれていたのです。
目を覚ました時に、自分がどの街のどの部屋にいるのか分からなくなるのは、移動を伴った日々で、こんな風に緊張から解放された時に起こるようでした。
その朝は、シーリングファンが回っているのをぼおっと眺めながら「シーリングファンのある部屋は限られるなぁ」などと記憶をたどり始めました。このときも、前日まで取材やバイトで外泊が続いたので、疲労が溜まっていたのでしょう。久しぶりに自分の部屋で寝られるという安心感が、連日の緊張を和らげた結果引き起こされたのだと思います。
コロナ禍で海外に出なくなりましたが、以前はあちこちを回っていました。毎日のように宿を変えながら旅をしていると、自分がどの国にいるのかさえ、寝起きの意識からすっかり抜けてしまっていたり、海外にいながら東京の部屋と錯覚したりすることもありました。これは記憶力が曖昧なのではなくて、なにかの安心感がきっかけになって、もしくは夢に夢中になりすぎたために心の油断を招いた結果なのです。
心の油断。寝起きは隙だらけです。
ベッドに横たわったまま、僕はよく「こんな歳を取ったのに、なにもまともにできやしない」というようなことを思ってしまいます。「なにも」というのは仕事のことです。
仕事に生き生きと向き合えていない自身に対して抱く、焦りと虚しさと諦めの混じったような感覚で、ひたすら僕を惨めにさせるのです。
僕が見る夢に出てくるのは過去の知人や家族が多い気がします。
そう感じるのは、目が覚めると、他の夢は意識の外へ一斉に引いていくくせに、この種の夢はしばらく記憶に残るからなのかもしれません。
トラウマというよりは、印象に強く残ったと言った方が適当な、僕の仕事観にまつわる過去の出来事があって、どうやらその周辺で夢を見ているようなのです。
夢の中の自分が何歳なのか定かではありませんが、登場する人物たちは当時のままの年齢で止まっています。目が覚めると自分がやけに歳を取ったような錯覚に陥るのはそのためでもあるでしょう。しかし、それだけではありません。
「こんな歳を取ったのに」というのは、子どもだったころと比較して、果たして今何ができるようになったかと自問すると、目立つものをほとんど挙げられない確かな事実があるからなのです。
でも、本当は、この種の惨めさで苦しむのは、寝起きの僕が『ある物語』にすっぽり包まれていることに気づけないことから来ています。
僕は一度目を覚ましたら爽やかに起きて、溌剌と動き出すといったことがほとんどありません。
朝起きる時は、色んなことが気怠く感じられてしまいます。
そして、爽やかな目覚めの朝とかけ離れた疲れを抱えて横たわりながら、昨夜自分が何かに前向きになれたとしたら、それは巧妙な幻想や物語に浸っていたからなのだとはっきり気づかされるのです。
何かに精力的に向き合っていた日中の時間は、簡単に手に入るドラッグのようなものを打ってハイになっていただけなのだ。こうして起き出した後は、その惨めさという副作用をまた別の安物のドラッグ、それは例えばスマホを経由するならどんなモノであれ、それらで麻痺させることをひたすらに繰り返して夜を待つだけなのだと。
ところが不思議なもので、気怠さで覚醒し始めた理性は依然として、自分がその『ある物語』の中に包まれていることに気づけないのです。なぜなら、それは僕が長い間、疑うことなく頼りにしてきた信条であり、行動の指針であり、人生だったからでした。
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かつて僕が信仰という言葉にも近い感覚で大切にしていた信条のようなもの。
その『ある物語』の一節にはこうあります。
「天職に巡り合った君は、朝を迎えるのが待ち遠しい気持ちで寝付く」
「そして朝起きたら、感謝と喜びを持って一日の仕事に取り掛かるのだ」
『ある物語』が単に「物語」であって真実では無いことに気づいた今ですら、寝起きの僕は、すっかり潜在意識に浸透したこの言葉を、呪文のように反芻しているのかもしれません。それは僕が長いこと自分に課してきた習慣だったのです。
そして、その「天職」を未だ手にできていない自分を捕らえて惨めに思っているようなのです。
僕はこの惨めさを、周囲の人も心に秘めているのだと、当たり前のように考えて生きてきました。
ところが、そうでは無さそうだということを最近になってようやく知ったのです。
それは僕がモノローグ365というシリーズで東京版の制作を進めていた時のことです。
「どうしてこういうのを作っているの?」
取材の合間に、必ずといっていいほど取材対象の方に聞かれました。
こういった時に、僕はあらかじめ用意しておいた言葉で一通りの説明をします。
すると感心したような、でも納得しきれないような、微妙な顔と反応をする人が多いのです。
このようなことは、海外で取材の練習をしている時はありませんでした。
でも、考えてみれば、それは単に言葉による意思疎通の問題があったからなのでしょう。
そして編集を経て、出来上がった記事を周囲の人に見せると、多くの場合、彼らはまたなんとなく言葉を濁すのでした。
それでも、親切な人はこう言ったりします。
「もっと分かりやすい説明が必要じゃないかな」
「なぜモノローグ365を作るかなんて、ページを見ればわかる」と自然に考えていた僕は、このように言われるといつも軽いショックを受けたのです。
それは大袈裟に言えば、サン=テグジュペリの『星の王子さま』が、象を丸呑みした蛇の絵を、大人に帽子と間違われた時に抱いた違和感に近いものだったかもしれません。
でも、実は制作を開始した直後から、僕もその予感を薄々ながら認めていました。
恐れていたのは、「これではほとんどの人に伝わらないかもしれない」という予感と向き合うことで、自ら制作意欲を挫く可能性でした。冷静に練習作品を振り返ることをためらっていたのです。
「わかる奴にだけわかればいいのだ」
いずれ自分と同じ種の惨めさで苦しむ人の目に留まれば理解されるのだし、そもそも今は練習の時期なのだ。人に見せるほどのものは作れないし、見せて回るなどしなくて良いのだ。そう言い聞かせて、そのまましばらく取材と制作を進めていたのですが、取材を進める以上、理由を聞かれ、説明する度に微妙な顔と反応をさせてしまう。
それに、このままだと、どうもその「わかる奴」が一向に現れないという別の予感もしてきたのでした。
今、365人への取材を敢行するにあたって、すでに143人の記事を作り終えました。
僕にとって取材は旅であり、旅はよく人生に例えられることがありますが、もしこの制作にも幼少期、青年期、壮年期、老齢期があるとすれば、今は青年期に当たるのだと思っています。というのは、143名への取材、実際は記事にしていない取材も含めて150名ほどですが、この期間、「なぜ制作するのか」に対して僕自身、大した理由は要らず、ただ「作ろう」という衝動に任せて進めていれば良かったからです。
ですが、最近になって、素朴な質問や軽いショックを幾度か経るうちに、それらに対応する、自分でも腑に落ちる答えが得られたのです。
その答えは、改めて取材と制作において表現を試みるつもりなのですが、ここではそもそもどうして僕が制作と向き合うようになったのかを、順を追って話していきたいと思います。
第二話 インド


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チェンナイは南インドの中心都市の一つです。インドの他の街と同じように、やはりこの街も喧騒と猥雑さに満ちています。インド4大都市にも挙げられるほど大きなこの街が、デリーやコルカタとなんとなく違う雰囲気なのは、イスラムの影響をあまり受けていないからだとか、北インドとは文化が異なるからだとか、公用語がそもそも別の言語だからといった、幾つかの大まかな理由があるそうです。
広大な街の東側は海に面していて、その一角に、僕の流れ着いた旧市街ジョージ・タウンがあります。
17世紀頃、かの東インド会社はこの地に商館と砦を建てたのが始まりだそうで、チェンナイ湾を出入りするイギリスの商船を相手にインド商人の作った街が、このジョージ・タウンです。
なるほど街のあちこちに植民地時代の面影を残した赤煉瓦の古い建物を見ることができます。バザールという巨大な商店エリアがいくつもあり、いかにも仕事の取材をテストするのにふさわしい感じがします。チェンナイの中でも一番庶民的な雰囲気を持つと言われるこの街にたどり着いたのは、本当にただの偶然からでした。
チェンナイ空港を出て、何の予備知識も入れていない僕は、ひとまず電車で市内に向かうことにしました。タクシーやオート三輪などに乗れば、何かしらのドラマがすぐにでも起こるのですが、今回は取材に徹すると意気込んで来たのです。いえ、正直に言えば「インド旅のゴタゴタはもうごめんなのだ」という腰の引けた思いが電車を選択させただけなのでした。
午後2時頃、人影のあまりないホームで電車を待つこと10分。電光掲示板の時刻通りにやってきたその電車は、滑り込むようにホームに入りました。メトロと呼ばれるその電車の外観はとても近代的で、車両の中に入ってみると、その内装の真新しさに、さらに驚かされてしまいます。
「インドはとにかく手強い」と警戒を厳としていた僕は拍子抜けすると同時に、隙の無い清潔さに、なんとなく都会の冷たさも感じたのです。それは都会人が発する、取り付く島もないよそよそしさが、取材を難しくさせるのではないかという危惧でした。シートに腰掛けた僕は、窓の外に広がる初めての街並をぼんやりと眺めながら、「それでもなんとかなるだろう」と楽観していた心を少しずつ曇らせていったのです。一筋縄ではいかないという覚悟を、改めて急に求められたようでもありました。
車両のドア上部には日本でもお馴染みのモニターが付いていて、広告と順番に停車駅の案内が流れます。そこに一際大きく出ていた駅名、エグモア駅。郊外と中心地を結ぶ鉄道が接続しているこの駅は、いかにも旅行者の拠点としての機能を備えているようでした。僕はひとまずこの駅で降りることに決めました。
駅を出ると、クラクションをバンバン鳴らす車が行き交う通りを小走りで渡ります。昼食を取るために適当な、というよりは小綺麗そうなレストランを狙って飛び込みました。エアコンが効いた、ちょっと高くつきそうな店でしたが、なんといっても初日です。これくらいは許されてもいいだろうと言い訳をしつつ、白いワイシャツにベストを着た年配のボーイに案内されたテーブルにつきました。他に客のいない暗い店内はなんとなく怖かったのです。出されたメニューを恐る恐る開くと、全く法外なことはなく、カレーとペプシでおよそ850円ほど。知らず警戒モードに戻っていた自分に多少呆れつつ、食事をしながらスマホで宿を探しました。
海外に出るときはいつも料金フィルターをかけて、最安のラインで探すのですが、今回はライフワークを懸けた取材です。評価と写真を見比べながらいくらか良さそうな宿を予約しました。そこはパンディアンという名のホテルで、後で知ったのですが、あの『地球の歩き方』にも「ゆったりくつろげる中級ホテル」と紹介されている宿でした。アプリに表示された決済金額は1泊791円、高くはありません。評判も悪そうには見えなかったのです。
ただ、チェックイン後、部屋はそれなりに見えたのですが、翌朝から咳が出始め、困ったことに体調を崩してしまったのです。エアコンからポタポタと水が滴っていて、なかなか室温も湿度も下がらず、生臭い風だけが送られてきます。スタッフの対応もいい加減。これはまずいと思い、備え付けの食堂で朝食を済ませると、アプリで近場の宿を予約してさっそく移ったのでした。
しかし、移動した先のホステルの個室でも、部屋の至る所に、もちろん浴室にもですが、もはや隠れることも知らないといった堂々のゴキブリの群れ。幻滅し、結局、即座に引き払って割高の宿に移るという顛末。取材用の機材荷物を一度も解くことがないまま、宿選びに丸々3日と体力だけを浪費してしまったのでした。
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今回の滞在予定はちょうど3週間。「滞在費をできるだけ節約しながら30名程度の取材ができたら」などと目論んでいたのは、あまりにも甘かったのです。咳き込みながら、風邪の引きはじめのような、ぼんやりする頭で街をうろつきます。気温と湿度が高い中では温水の中を泳ぐようで、とても取材の申し込みをするわけにはいかなそうでした。忙しそうに仕事をしている人たちを眺めていると、とても取り合ってもらえないように感じられてしまうのです。「このまま取材のひとつもできずに帰ることもあるのだろうか」と、つい情けないことを考えてしまいます。
インドから取材をスタートして、365人の仕事に関する素朴なメディアを作る。これが僕のライフワーク、というよりは思いつきと言った方が正確の、ささやかな主題でした。そのような旅にとって、観光地を巡ったり、息を呑むような景色に出会うための進路を取ることはあまり意味がないものです。しかし、だからと言って、ただの思いつきをいきなりインドで試すこともないと言いたくなるでしょう。ほら言わんこっちゃない、と。
それでも僕には、初めての取材の場所はインドの他にないように思えました。それは、かつて旅をしたことのある土地の中で、どの面においても苦い思いをした、そのはっきりとした印象があったからです。それは例えば食あたりによる激しい下痢です。昼夜を問わずきっかり2時間おきに繰り返される悪夢には、インド入国から1週間半ほどで毎回取り憑かれてしまうのです。
そして、不衛生な環境で罹る風邪。例えば宿のエアコンがカビていたり、寝具やタオルが汚かったりと、少しでも体調を崩すようなことがあれば、あっという間に細菌の餌食になってしまいます。観光を目的に来ただけでも、訪れる度に痛い目にあったインド。ここで取材を経験できれば、他のどの土地でも「やってやれないことはない」という自信を手にできるのではないか。僕が迷わずインド行きの飛行機に乗ったのは、安直ではありますが、そのように考えた結果でした。
ところが、この3日間で全く前向きな印象を持てなかった僕は、「タミル語を解さない外国人が取材なんてそもそも」「どうせ都会人は冷たいだろうし」などと、さっそくの言い訳を並べ立てて、宿の近くの茶店でスプライトの瓶を傾けていました。
冷たいスプライトの瓶はあっという間に結露だらけになってテーブルを濡らし、そしてあっという間に温くなっていきます。そのまましばらくうなだれた後、「いっそ街を変えようか」と思い至りました。エグモアという街が取材に向いていなかったというのではありません。単に体調不良が招いた弱気と、街の第一印象がなんとなく気に入らなかった。どれもタイミングが悪く、いまいち気分が乗らなかったというだけのことだったのです。
でも、一度その考えに取り憑かれると、なんだかこの機を逃してはいけないような気がして、さっさと勘定をすませると、宿へ荷物を取りに引き返し、足早に鉄道駅へ向かったのでした。「こんなところで一体何をしているんだろう」と挫けかけていた僕は、まだ動けるうちに負のサイクルからの脱出を試みようとしていたのだと思います。
エグモアの鉄道駅。この駅は、打って変わって全てが使い古されていました。紙の切符も並んで買いました。自動改札はなく、乗客の出入りをチェックしている駅員もいません。通勤や買い出し、遊びに出る人でごった返したホームで待つ間、この旅で初めて地元の人々の顔をマジマジと見る機会を得たように思います。彼らは僕を外国人であると認めると、若い人たちは特に、好奇の眼差しをもって笑いかけてくれるのでした。
使い古された車両、どの窓もドアも開けっ放しのままゆっくり走るインドの鉄道。流れる風景を眺めながら風に当たっていると、僕がなんとなく知っていたインドの世界に入れたようで、変にホッとしたのです。しばらく揺られながら、どの駅で降りようか、きっかけを探していると、英語で駅名の書かれた標識が目に飛び込んできました。
チェンナイ・ビーチ駅。僕がこの駅ですぐ降りることを決めたのは、ビーチという駅名に魅かれたというだけの理由です。
「浜辺が近いのだろうか」
「取材が本当に難しかったら、全部放擲してビーチで甲羅干しをすればいい。それだけでも元が取れるじゃないか」
三日目にして既に弱った心と体は、数日前インド行きの飛行機に乗った頃の志をもう忘れかけていました。
そして、偶然に降り立ったその駅こそ、僕が2週間の滞在の間に初の取材を敢行する拠点の街、旧市街ジョージ・タウンの最寄駅だったのです。


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かすかに潮の匂いがしました。海と砂浜が近くなのは間違いないようです。
どこまでも続く白い滑らかな砂浜に、晴れ渡る青空。それを目当てにやってくるインドの褐色の青年たち。そして深いエメラルドの海を前に、思い思いに耽る人々。僕は椰子の木陰に腰を下ろして、そよぐ風に少し眠気を誘われながら彼らを眺めています。そうしているうちに、空は傾いた夕陽で燃えるような紅に染まっていき、やがて闇のグラデーションを描いて水平線に沈んでいくのです。その光景が浮かぶと、弱りかけの僕の心は、再び意思のある鼓動で少し震えたのでした。
降車客たちが遠ざかっていきます。標識の前で呆然と突っ立ったまま、まだ見ぬ海に一人浸っていた僕は、ギシギシと苦しそうに喘ぎながら入ってきた貨物列車の大きな汽笛に促され、あちこちにペンキの剥がれた跡が残るくたびれた駅舎へと向かうのでした。
手に握った切符は回収されるものだと思っていました。でも、この駅にもその役目を負う駅員はいません。これでは、無賃乗車をしてくださいと言っているようなものです。
「そう、インドはこうでなくちゃ」
僕は心の中でそう呟きます。適当さ。インドで取材を進めていくにあたって、僕がまず発揮すべきだったのは、あらゆることに対して「まぁこんなものか」とやり過ごす鷹揚さだったのかもしれません。
キオスクに立ち寄り、スナックとサイダーを買いました。
駅備え付けの食堂はあったのですが、なんとなく腰を落ち着ける気にならず、立ったままポリポリやっていると、また次の列車がホームへと入ってきます。
すると、隣のくたびれたパイプ椅子に座っていた制服の男がおもむろに立ち上がり、新たな降車客を無作為に捕まえて、何やら話を始めました。
一人ひとり切符の確認しているところを見ると、どうやら抜き打ちの改札をしているようです。面白がって見ていると、話しかけられたある若い男性は「落としてしまったんだよ」とでも言うようにジェスチャーをしています。そして悪びれた顔もせず、素直にカネを払ったところを見ると、やはり無賃乗車は日常茶飯に横行しているのかもしれませんでした。
さて、新しい街に着いてまずやることと言えば、安くて、便利で、清潔で、居心地の悪くない宿を探すことです。
これを解決できないことには、取材に集中するなどあり得ないのです。そこで、今回はより慎重を期して、偽レビューばかりのアプリに頼るのをやめ、街歩きをしながら実際に目で見て探すことにしました。
人の流れは駅を出てすぐの地下道へと吸い込まれていきます。彼らに従って歩いていくと、ほの暗い地下トンネルの中はひんやりとしていて、みんな声の反響を気にしてか、この界隈には珍しい静寂がありました。そして、忙しく行き交う人々の他には、通路の両側に物売りたちが陣取っていて、ゴザに野菜や果物を広げています。その売り手の中には小学生ほどの子どもたちも含まれていました。
「彼らのことを撮りたいな」
インドに着いてそのように思ったのはこれが初めてです。しかし僕には彼らと会話する術がありません。意思疎通を図るアイデアはあったのですが、何の準備もせずに日本を出てきたのです。「後で戻ってこよう」と小さな声で呟き、街の入口へと繋がる階段へ向かいました。
地上から一直線に差し込む光は、暗いトンネルの両端の、コンクリートがはげた赤煉瓦の壁を照らしています。その光の筋に、キラキラとおびただしいホコリが舞っているのは、不快で嫌悪させるというよりはむしろ、何か映画の印象的な一コマを目の前にしたようで、神秘的という表現がわざとらしくもにように思えます。それはきっと、その映画のカットに自分を投影していたからかもしれません。一段一段と階段を登るたびに重い荷物が肩に食い込むのを感じながら、僕はこれから起こるドラマの予感に胸を高鳴らせていったのでした。
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僕が足を踏み入れたジョージ・タウンは、まさに仕事の街でした。
金物屋、花屋、生地屋、紙屋、建築資材や便器、名刺やパソコンを専門に扱う店、大量買いのできるスーパーなど、なんでもあります。商店がどこまでもずらりと並ぶこの一帯は、仕事をするために必要なものはおよそ揃っていると言った様相です。辺りに観光客はほとんど歩いておらず、インド人がインド人のために商っている店やオフィスばかりでした。
ですが、みんなが穏やかに営む平和な街といった雰囲気はどこにもありません。碁盤の目に走った狭い路地を、荷物を過剰に積んだオートバイ、トゥクトゥク、台車、そして牛に引かせた荷車が我先にと行き交い、砂埃を立てています。道端にはあちこちにゴミが散らばり、物乞いをする者も少なくありません。
人々はそれらを巧みにかわしながら各々の目的地へ向かうのです。グアバを満載した重そうな荷台を、細い体を傾けて懸命に引く老人は、靴もサンダルも履いていませんでした。そして、そこら中で怒鳴り声やけたたましいクラクションが響き渡っています。賑やかさを通り越したその雑踏を、汗を落として歩きながら、僕は興奮していました。
僕はこんな街に来たかったのです。こんなうるさい街でやりたかったのです。インド特有のこの猥雑さには隙があり、僕が入り込む余地がありそうな気がしていたのでした。
「この街で取材ができなかったら他の街で何もできるはずがない」
そう心の中で何度も呟いたのは、自分の弱りかけた心を引き締めるつもりが無くもなかったのです。しかし、それでもやはり、偶然にしてこの場所に流れ着いたのは幸運に思えました。そしてそれから数時間、ある宿の前に出るまで、僕は荷物を抱えたまま街をじっくりと見て回ったのでした。
『アルマッシン ホテル アンド リゾート』
この響きだけなら、結局は海側のちょっとしたところに部屋を取ったのだろうと思われても仕方ありません。ところが、何が悲しくて『リゾート』と付けたのか、その外観には似ても似つかぬ、商人が寝るためだけに立ち寄るような、小さな宿でした。もちろん、プールもなければレストランもありません。
僕がここを拠点としたのは、単に立地がよく、部屋が清潔そうに見えたこと、そしてエアコンから水が漏れないことを確認できたからでした。
「早く取材に取り掛かりたい」とはやる気持ちを抑えながら、シャワーと洗濯をセットで済ませます。ところが、外の喧騒から離れ、それまでで一番マシな部屋にたどり着いたという安心感で気が緩んだのか、興奮で紛れていたらしい頭痛と悪寒がぶり返してきたのです。
浴室から出ると、日本から持ってきていた薬を飲み、ベッドで横になりました。涼しい部屋で、シワのない真っ白なシーツに包まることが、なんだか贅沢に感じられます。そう感じたのも束の間、意識は朦朧となり、僕はあっという間に眠りに落ちてしまったのでした。
どれくらい眠ったのでしょうか。目が覚め、体を起こすと、鈍い頭痛はまだ引いていませんでした。料金を渋ったせいで窓のない部屋でしたが、時計は20時を少し過ぎたところです。外はすっかり暗くなっているはずでした。「それでも食事は摂らないと」と思い、部屋を出てフロントの男性に手頃な食堂を聞いてみることにします。浅黒く丸い顔つきの、鼻の下にヒゲを伸ばした彼は、なんとなく難しい表情をしていました。
でも、黒縁の眼鏡をかけ、チェック柄のシャツをスラックスの中にきちんと閉まった清潔な出立ちの彼は、意外にも大学生で、また、人懐っこかったのです。
「ビジネスで来たの?」
彼の口から滑らかな英語が出てきました。目的を伝えると、偶然にも大学で映画を専攻しているのだという彼は、前もって用意していたインタビュー用の質問リストの翻訳を頼まれてくれると言うのです。チェンナイには『コリウッド』といって、南インドでは随一の、インド映画を撮影する街があるということも熱心に話してくれました。
「要はドキュメントを撮るんでしょ? 」
「俺も撮ってるんだ。協力するよ」
糸口を掴めずに一人焦り始めていた僕は、この小さな前進に気を良くして、調子に乗って彼に取材の練習までお願いしてみました。するとこれもあっさり快諾してくれるのでした。
その夜、食事を済ませて戻ってきた僕は、フロントの真前にあるソファに座ってPCを広げました。そして、打ったものを彼に見せ、添削をしてもらっては修正をするという方法で、タブレットに10ほどの簡単なインド語の質問リストを完成させたのです。
礼を言って部屋に戻ると、どっと疲れを感じ、そのままベッドにぐったりと横たわりました。目を瞑ると、長かった一日の出来事が思い出されてきます。この日の朝、僕は茶店とも言えないような茶店で、スプライトの瓶を傾けていたのです。それから宿に戻って、鉄道に乗って、街を歩いて、洗濯をして、昼寝をして、インドの学生とおしゃべりに夢中になって、パソコンを叩いて。そして、これで明日から突撃開始だと思うと、ウトウトしかけていた意識は、また変に覚醒してしまいます。
結局、その晩はひどく疲れているはずでしたが、昼寝のせいか、体調不良のせいか、室内干しのせいか、暑かったり寒かったりというのが続いて、なかなか寝付けませんでした。それでも無理に目を閉じて横になっていると、街で働くインドの人々に、ぎこちなくインタビューのお願いをして回る自分の様子が、何度も何度も脳裏に浮かぶのでした。


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海から吹く風は確かに気持ちが良かったのです。
でも、世界で2番目に長いと言われるそのビーチは、僕の想像した楽園とはちょっと違っていました。ゴミが大量に散らばっているのはここも例外ではないらしく、海は茶褐色に濁り、また空は厚い雲に覆われていました。砂浜の方方に、そして波打ち際のいたるところにまで、雑然と屋台が放置されていたりします。唯一、新鮮に感じたのは数頭の馬が颯爽と走っていたことです。もちろん、野良ではなく、観光客を乗せたり写真を撮ったりするための、仕事をする馬でした。
僕はここでも、一人二人くらいは取材ができないものかとカメラを持参していたのですが、そのカメラを見るや否や、すぐに馬の連中に囲まれ、「乗ってみないか」「写真を撮れよ」と押し売りに困らされたものです。結局、なかなかカネにはならないとわかり渋々去っていきましたが、どこを歩いても海水浴客たちから「そのカメラでぜひ撮ってくれ」などと絡まれ、連日の戦いの傷を一人のんびりと癒すことはできなかったのです。
戦い。ジョージ・タウンに流れ着いた翌日から取材は始まり、10日間で20人のインタビューに成功した僕は、とにかく疲労困憊だったのです。いえ、実はカメラの録画ボタンを押し忘れていたり、マイクの電源を入れ忘れていたりと、実際には16人しか収録できていなかったのですが。もちろん、予想通り、それらの取材は簡単にはいきませんでした。
初めての取材は、思い出すだけでも情けなくなってしまいます。屋台街の一角にカバンと靴の店を張った親父におそるおそる話しかけたのは、いかにもぎこちなく不自然でした。趣旨を説明しようとすればするほど話は混乱していき、両者訳もわからず「取材」は進んでいきます。タブレットを持つ手は震え、マイクのケーブルは焦るほどに絡まり、続々と集まってくる野次馬で緊張が増すと、挙げ句の果てにカメラは落とすわ、バッグのスリングに足を引っかけて転びかけるわで、その時の自分の表情を思うといたたまれなくなります。おまけに、逃げ帰るようにして戻った宿で、インタビューのデータが全く保存されていなかったという凡ミスに気づき、愕然となったのでした。
この10日間、そんなことを何度も何度も繰り返し、ようやく緊張することに慣れてきたという程度ですが、トンネルのレモン売りの少年、チャイ屋の青年というよりは少年、リキシャの親父、牛遣いのおっさん、サリーの仕立て屋、売店の青年、グアバ売りのおじさん、薬局と床屋の店主、バイクのメカニックなど、様々な人を撮りました。
そして、バンガロールという別の街へ移動する前日に、気分転換を兼ねてこのマリーナ・ビーチへやってきたのです。最後の1週間は「インドのシリコンバレー」と呼ばれる世界でも注目の街で取材をしてみたいと思い、帰りの航空券はあらかじめバンガロール発-東京行きを買っていました。
そもそも、インドはインドでも、なぜチェンナイだったのか。
理由はなかったのです。
かつてイギリス植民地時代にマドラスと呼ばれたこの街の名は、小学生の頃に「マドラス、ボンベイ、カルカッタ」と語呂を繰り返して覚えた記憶があります。確かにこの街が、世界史の嫌いでなかった僕が歴史資料集を繰って「いつか大人になったら行ってみたい」と思った場所の一つだったのは間違いありません。
ところが、その大人になってみると、別の機会にいくつか街を回った経験が充分に好奇心を満たしてしまい、マドラスは「あらためて行ってみたい街」ではなくなっていました。それでもこの街までやってきたわずかに理由らしきものといえば、東京発-インド行きの航空券でたまたまチェンナイが最安だったということ。そして、僕の乗っているバイクのメーカーの本社がこの街にあり、安くパーツを買い込んで帰れるかもしれないという別の魂胆があったからでした。
では、どうして僕はこのようにカメラを抱えて日本を出てきたのでしょうか。
この質問に答えるのは少し長い説明を要するのですが、僕には確かに「これをやろう」という深い納得感と衝動があったのです。それはいつもの散歩道を歩きながら部屋に戻るときのことでした。「これから仕事どうしよう」という毎度の疑問に、過去の体験を交えながら心のうちで一人対話をしていたのです。そして、ふと、過去の自らの体験の全てが、こうして世界中を取材をして回る自分の姿に繋がっているという感覚を抱いたのでした。
実は、このように取材だとか何かを作るだとかを想像することは、それが初めてではなかったのですが、このときははっきりと感じたのです。「今やろう」と。そして、その日、買ってから一度も手付かずのままクローゼットに半年も放置していたカメラをバッグに押し込んで、アプリでインド行きの航空券を購入すると、その夜には飛行機に乗ってこのチェンナイへ向け旅立ったのです。
その後、実際に旅へ出てみると、その確信は疑念に取って代わられ、衝動はやがて意図を伴う行動に代わっていきました。
「こんなところで何をしているんだろう」
この素朴な疑問は、僕がこのインドの街の片隅で、そしてインドへ出発してからの3年間、何度も何度も色々な街のベッドの上で天井を見つめながら呟いてしまう、はっきりした答えを見出せない疑問のままであり続けるのでした。
でも、これについては、もう少し説明が要るようです。
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鳥占いは初めてでした。そもそもそれまで僕は占い自体に縁が無かったのです。ですから、今回の出合いはタイミングが良かったのかもしれません。
マリーナ・ビーチの砂浜には海を眺めるために多くの人が腰を下ろしていました。陽射しを避けるために、無造作に放置された屋台の影に座っていたお婆さんもその一人、だと思ったのです。僕がウロウロしていたのをどれくらい見ていたのか。たまたま目が合うと「こちらへおいで」とでも言うように手招きするので、それに応じて側へ寄っていきます。そして開口一番、「お前のことを占ってやる」と言うので驚かされました。聞くところによると、彼女は占いを生業にしているそうなのです。
互いの母国語も使えず、僕の何を占うというのか。いつもの海外歩きなら迷わず断るところです。でも今回は少し考えた末に、交渉を経て、占ってもらうついでにお婆さんを簡単に取材するということで話がまとまりました。
料金交渉の際に彼女が覗かせた欲深さや、口元に湛えるシワの寄った笑みはいかにも胡散臭そうで、占い師の漂わせるべきペテンの雰囲気そのものです。ときおり凄んだ表情で僕をなんとか説得しようとする彼女の顔には、醜さを隠そうとして塗りすぎた、厚化粧の滑稽さのようなものが感じられました。
その占い師とのやり取りで妙な冷静さを保てた僕は落ち着いて準備を済ませ、カメラを向けて合図を送ります。紫色のサリーを纏った老婆は軽く頷いてから、何やら呪文のようなものを唱え始めました。すると、オウムがタロットの束の中から一枚を咥えて取り出し、主人はそれを手に何事か読み上げながら、今度は僕の手を取って木の棒でさすり始めたのです。
その様子をカメラのディスプレイ越しにどこか他人事のように眺めながら、僕はこのような一つ一つの出会いとやり取りが確かに自分の身に起きているという、自覚と現実感の無さが奇妙に同居する不思議な感覚を味わっていました。
そして次の瞬間、かつて大学を卒業し、あるベンチャーで働いていたときのことを脈絡もなく思い出したのです。それはもう、10年も前のことでした。
「こんなことを毎日やるくらいならカネなんて要らないから他のことをしていたいよ」
一攫千金を夢見て入った五反田のベンチャー企業。オフィスビルの一室で朝から晩まで受話器を抱えてテレアポをしていたある日のこと。それは僕が隣の同僚に向かって言った、ありのままの気持ちでした。
「仕事楽しいですか、なんて聞いて回わりながら異国をほっつき歩く姿を、当時想像できたかな」
老婆にカメラを向けたまま、僕はどこか上の空でそんなことを考えていました。
「他のことをしていたいよ」とは言っても、その「他のこと」が何を指すのかは言えなかった当時の僕には、それでもビジネスというもので成功してみたいという強いこだわりがありました。
当然、「成功したい」などと本気で考えていた当時の僕が、およそカネにはならないことをするなど考えたはずもないのです。
成功だとか強いこだわりだとか言いましたが、大学を卒業してしばらくの間、僕はアルバイトもせずにフラフラしていました。もちろん、無職を志していたのではありません。その前年の就活で、1万人を超えるエントリーの中から30名ほどしか通過できない狭き門をくぐり抜け、僕は超難関の人気企業へ内定していたのです。ところが卒業式を経て事態は全く想定外の方向へと進み、その翌週、同級生たちが入社式を迎えていた頃、僕はいつもの自分の部屋で一人虚ろにうなだれていたのでした。留年、内定取消。それまで人生のターニングポイントを卒なくこなしてきたはずの僕は、その結末をなかなか消化できずに、しばらくの間、悶々として過ごすことになったのです。
結局、もう一度自分を奮い立たせて就活に向き合うことができなかった僕は、その翌年に卒業を迎えて無職となったのでした。
「こんなところで何をしているんだろう」
振り返ってみれば、目が覚めても横たわったまま、天井を見つめて心の中でそのように呟いたのは、この頃が初めてだったかもしれません。
それは『就活で人生の勝ち組に入る』という物語、もっと言えば、『あらゆる努力は報われる』という物語が剥がれ落ちたことによって浮かんだ、素朴な疑問であり、縋っていた指針を失ったことによる虚無の表れでもありました。
そして、その後の僕は、その素朴な疑問「こんなところで何をしているんだろう」の答えを見出すたびに確信と衝動で行動を起こし、それが上手くいかなくなるたびに必死で虚脱感を埋めようとして『ある物語』に自らを埋没させていくのでした。
「自分の好きなことをやって幸せになろう」
「一生打ち込める自分のライフワークに就こう」
そのように考え、いくつもの職場を経て、なんとか夢の仕事を掴もうと模索した20代の日々。このインドへの旅立ちは、その苦悩の日々の集大成になるはずだったのです。
でも、出発を決意したとき、僕は気づけなかったのです。「ついにわかった」と絶対の確信をもってこのようにインドへやって来たのは、僕が過去の10年間に何度も何度も繰り返してきた「ライフワーク探し」と、発想においても、動機においても、どれを取ってもまるっきり同じであったということに。
宿へ戻る道をトゥクトゥクに揺られながら、その日も1人撮れたという達成感で安堵の息をつきました。カメラを抱えて人の話を聞いて回るという自分像にどこか悦に入っていた僕は、そのことに気づいているはずもなかったのです。
その翌日、チェンナイからバンガロールへ向かう列車に乗り込んだとき、僕は確かに、「これでライフワークの入り口に立てた」「これで悩みの日々から解放されるんだ」と、自らを祝福さえしていたのですから。
迷える人を巧みに誘い出し、占いという物語を信じ込ませるペテン師。僕は長いこと、自らを欺くペテン師であったことに、この時点ではどうしても気づくことができなかったのでした。


7
バンガロールの滞在で大変だったのは、やはり宿でした。
「ホテル セレクト」と言う名の宿は、インペリアルというちょっと小洒落た食堂の2階にありました。2泊で777ルピー、日本円にしておよそ1400円のこの宿へ移ってきたのは、やはりその安さに惹かれてのことです。もちろん、モノが安いのにはいつも理由があり、アプリでその点をよく確認せず予約した僕が悪いのですが、通された部屋には窓も冷房も付いていませんでした。
標高900メートルのこの高原都市は一年を通して穏やかな気候ということもあり、機材を背負って外を歩いても暑さはなんとか凌げるくらいです。そして、この地を訪れる日本人が「およそインドのようではない」などと形容するらしい整然とした街並みは、それでも歩いていればどこかに野良牛を見かけ、道路や歩道のところどころに陥没があり、けたたましい騒音は一日中止まず、日本では体験しようのない某のインドの常識に遭遇します。だから、僕にとってはこの街もインドの街であることに変わりなかったのです。しかし、それらにも徐々に順応し始めていた僕が改めて悩んだ理由は他にありました。
それは、僕に充てがわれた部屋の浴室から漂ってくるひどい異臭です。その異臭の元は、どうやら樟脳にあるようでした。この宿の運営者はそれを承知しているらしく、壁をくり抜いて雑に後付けされた換気扇が耳障りな音を立てながら異臭を廊下へ放出しています。
浴室の小部屋は背丈ギリギリに作られており、蓋も便座もない便器が備え付けられていました。壁に無理やり取り付けられたシャワーヘッドからは、弁の締まりが悪いのか、チョロチョロと水が垂れて床のタイルを濡らしています。その水は、床を不器用にただ掘っただけの不恰好な排水溝へと流れているのですが、どうやら配管を伝って例の害虫やネズミが湧くらしく、それらを抑えるためにこの樟脳を置いているようなのです。置いている、と言うよりは、無造作にばら撒いてあると言った方がふさわしく、これほどの量を必要とする敵が足元に潜んでいることを考えると、なんだかゾッとしてしまいます。汗だらけの体をシャワーで流す間も、ビクビクしながら何度も排水溝の方に目がいってしまいました。
「今後もっとひどい環境で取材することもあるかもしれない」
「辛い環境を求めて来たのだしこれも練習じゃないか」
そう自分に言い聞かせながらベッドに体を横たえるのですが、今度は強烈な匂いで次第に頭痛が催されてきます。宿を変えるべきかどうか。旅の終盤に至ってもそんなことで悩むのは嫌でしたが、うんざりしつつも「まぁこんなものなのだ」と必死に心をなだめます。このような状況の連続に、僕は抵抗するのを諦め、受け入れることを学び始めていたと言ってもいいかもしれません。それに、帰国まで残り2泊だということと、無駄な時間と出費をこれ以上重ねてはいけないような気もして、結局、この宿の世話になることに決めたのです。
「仕事は終えたも同然なのだ」
20名分の取材データ。僕にとってその実績は慰めの役割を担っており、ギリギリのところで心のバランスを保てたのかもしれません。パソコンの画面にはこの3週間で収録した人々の映像と音声のファイルがずらりとリストされていました。それをぼんやり眺めながら、インド滞在の日々を振り返ります。
ため息をつきました。それは安堵のため息でした。旅に出発した当初の不安はもうほとんど解消されていたのです。「仕事どうしようかな、なんてもう考えないのかもしれないな」「プロには程遠いかもしれないが俺もライフワークの一歩を踏み出したのだ」などと心のうちで呟きます。そして備え付けの古ぼけたブラウン管のテレビをおもむろに付けると、どういうわけか、ハワイのサーフィン番組が映りました。サーファーがボードを巧みに操って波に白い泡の軌跡を描く映像が、音楽とともに延々と流れます。特に興味はないのですが、目を奪われたまま思考は途切れがちになり、僕は徐々に眠くなってきたのでした。
「プロになったらこんなのも撮るのかな」
「だとしたらつまらないな」
緊張感の抜けた頭でそんなことを考えながら、テレビを付けたまま、靴も履いたまま、そのままの姿勢でいつの間にか眠りに落ちてしまったようでした。
チェンナイを出てからこの日の朝まで、僕はバンガロール・シティ駅から3キロ程の真新しいゲストハウスに滞在していました。こちらはゴルフ場の裏手にあり、閑静な住宅街の一角に開業したばかりの、穏やかに過ごすには心地のよい場所だったのです。
しかし、取材をするにも周囲にはこれといった店もなく、マハトマ・ガンジー・ロードなどの繁華街に出るには徒歩で1時間もかかってしまう場所にありました。3名ほどの取材を終えるまで、その道をどれくらい往復したかわかりません。毎日クタクタになるまで歩いたお陰で毎晩ぐっすり眠れはするのですが、それでも身体は全快とはいきません。気前よくタクシーを使えるほどの予算は残っておらず、できればもう少し街寄りの宿に移りたいと思い、検討を重ねた結果、1泊2000円の心地よい個室を引き払って、この「ホテル セレクト」へと移ってきたのでした。
バンガロールで取材したのは酒屋兼飲み屋の親父、建築現場で働く鳶職の青年、そして宿泊先のゲストハウスのオーナーの3名。残り2日のうち1日はアポを取ることに専念して、最後の1日で撮って回る。できれば2、3人。そう目論んでいたのです。
ところがその翌日、一日中繁華街を徘徊したにもかかわらず、「撮りたい」と思わせる人物に巡り会うことはありませんでした。それは最後の日も同様で、路地裏もくまなく歩いて回ったのですが、結局夕方まで誰にも声をかけることができず、「このまま帰国になるのかな」と肩を落として宿へ戻ってきたのです。「もう20人も撮ったのだから」という満足感がブレーキをかけていたのかもしれません。いえ、きっとそうなのです。そして、とうとうインド最後の夜を迎えて、なんとなく不完全燃焼に終わりそうに思えたとき、ふと、宿の真向かいにあるバス停で、火を使った屋台でテキパキと切り盛りしている青年が目に留まったのでした。
20時ごろ。バス停を照らす朱色の街灯は暗く、錆びた重そうなガスボンベを2つ積んだ屋台は、もし蛍光灯を吊るしていなければ、たむろする数人の男たちとともに闇に溶け込んでいるでしょう。この国のどこにでもあるささやかな風景ですが、カメラを向けたくなるような風情が感じられました。客はパラパラと、しかし途切れることはなく、バスを待っている間に夕飯を済ませようと立ち寄った人もいれば、手提げ袋に入れて持ち帰る人もいます。
くすんだ黄色のシャツの胸元を開き、髭を生やした彼の目元にはまだ幼さが残っていました。一瞬少年を思わせましたが、彼の左手の薬指にはリングがはめてあります。赤いティラカを額に押したヒンドゥー教徒の彼にとって、それが何を意味するのかまではわかりませんでしたが。
その青年がフライパンを振って作っているのはエッグライスと呼ばれるインド風のチャーハンです。辺りにはフライパンを擦る音が響き、調味料の焼ける香ばしい匂いが漂っています。その他にはドーサと呼ばれるインド風お好み焼きがあり、手際よく香辛料を振りかけて注文を捌く姿につい見惚れてしまいます。すると、向こうもカメラを抱えたまま突っ立っているこちらが気になったらしく、話かけるきっかけをくれたのでした。もしかすると、ただ注文の有無を問われただけなのかもしれませんが、取材のことしか頭にない僕はこれをチャンスと捉え、思い切って願い出てみたのです。他の客が待っている中で取材の話を持ちかけるのは少し気が引けたのですが、彼は詳しい説明を必要とせず、存外あっさり引き受けてくれたのでした。
小一時間が経って撮影とインタビュー収録が一通り済み、僕もエッグライスをもらうことにしました。一皿70円ほど。緊張から解放されて気が緩むと、「チャーハンはどこで食べても美味しい」などと月並みなことを思ってしまいます。人懐っこい顔をした彼は依然として僕に好奇心を寄せてくれているようでしたが、忙しく動き回る彼に遠慮して、というよりは言葉の壁によって会話らしい会話もないまま、距離が縮まることはなかったのです。僕は客の切れ間に礼を言うと、記事が完成したら送るという約束をしてその場を後にしました。
それから宿へ戻り、ロビーの窓際のソファに腰を掛けて、ガラス越しにその屋台を探しました。何事もなかったかのように彼は注文を捌いています。
僕はその晩、客が来なくなるまでその様子をじっと眺めていました。これでインド最後の取材が終わったのだと思うと、柄にもなく、なんとなく感慨深い気もしてきたのです。
インド出発から旅の全編
トラベローグ365 第一章を現在執筆中
第三話 ミャンマー
第四話 フィリピン…
travelogue about my own conscience for career choice along with all my journey
